トロイ、ベルガマ、イズミール 「夏草や、つわものどもが夢のあと」
(ギリシア・マケドニア・ローマの遺跡だらけ)

 旅行前に私が知っていたトルコの地名といえば、イスタンブールとアンカラくらいのもの。「トロイの木馬」で有名なトロイもギリシアにあると思っていたくらいだ。ベルガマはかろうじて知っていた。何故なら以前ベルリンの博物館島の博物館の一室で、ここにあったアポロ神殿を復元したものをみたことがある。帰宅後調べて、その神殿はトルコのベルガマに建てられていたことを知ったから。

トルコの南と西海岸沿いは概して温暖な地中海性気候であり、現在の国境とは無関係に地中海文明が発展していたようだ。家にしても西洋と似たテラコッタの赤い屋根、山のてっぺんまで続くオリーブ畑、混血の結果、色々な髪や肌の色、彫りの深い顔立ちの人々が多くて、モスクさえなければここが非西洋だとは誰も思わないだろう。(文字もアラビア文字ではなく、ラテン系文字を採用しているし。)


トロイの遺跡はシュリーマンにあらされて見る影もない。

  

丘の上に広がるベルガモンの遺跡

   
ベルガモンの遺跡はアレキサンダー大王の亡き後、彼の7人の将軍の内の一人が築いた王国の遺跡である。
右から二つ目の写真の場所にはアポロ神殿があった。ドイツ人たちはこの神殿の部材をすべて持ち帰りベルリンの博物館島の博物館に正確に復元した。現地在住の日本人ガイドによると、この地に鉄道を引いていたドイツ人技師が、この丘の形をみて、遺跡が埋まっているのではないかと推測し、オスマントルコのスルタンに発掘の許可を得て発掘したと説明してくれたが、トルコ人ガイド氏によれば、この辺に貴重な遺跡が眠っている事を知っていたドイツは、この地域の埋蔵物は全てドイツが獲得する条件で鉄道を敷設したという。遺跡の価値を知らないスルタンは鉄道ほしさにドイツの提案を承諾した。(当時ドイツは戦略上の必要からオスマン・トルコの領土だったトルコ、イラク、アラビア半島を通り、スエズに至る鉄道路線をしきたがっていた。第一次世界大戦でアラビアのロレンスが破壊したのはこの鉄道だ。)

しかし、ドイツ旅行の頁にかいたとおり、ヘレニズム時代の遺跡は、明るい日ざしのあふれるエーゲ海沿いのこの地でみなければ価値が下がる。ドイツ人よ、えげつないことするな!(ドイツに限らず、西洋の博物館は略奪物で一杯だ。)ベルガモンの遺跡にはまだ復元可能な部材が残されているような気がするからトロイよりましかも。左から二枚目の写真には急傾斜の座席をしつらえた古代劇場が写っている。

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単なる神話だと思われていたトロイの伝説を信じ、徒手空拳の身から築き上げた全財産を投じて、トロイ遺跡を発見したと言われるシュリーマンだが(近来否定的な評価も書かれだした。)トルコ人にいわせると、遺跡の破壊者であり、埋蔵物を私した強欲爺だということになる。彼はめぼしいもの全てをドイツに持ち帰り、私立の博物館を作ったが、それらの出土品は第二次大戦中ソ連にすべて持ち去られ、現在エルミタージュ美術館に展示されているという。遺跡の価値は発掘された美術品だけにあるのではないのだから宝探しのために遺跡を無茶苦茶に破壊されたトルコの人が怒るのも無理はない。