トプカプ宮殿(ハレム、テラス、宝物館)
嫁姑の確執が作ったハレム(スルタンの私生活用の宮殿)
ハレムを作ったのは、ビザンチン帝国を滅ぼし現在のイスタンブールを作った「征服王」と呼ばれるメフメト2世ではなく、彼の数代後のムラト2世である。
このスルタンには地中海を航行中に海賊にさらわれて奴隷となり、スルタンに献上され、オダリスク(個室もちの愛妾)から筆頭の寵姫となったヴェネツィア貴族の娘がいた。
ムラト2世は彼女(気が強かったといわれる)に頭が上がらず、彼女も母后(本来なら私生活の場では一番の権力者である)をないがしろにしたため、母后はあまたの女性を使い彼を篭絡した。(自分の意向を尊重する女性達をムラトの愛人にしたのである。)その結果、それまでの宮殿では収容しきれなくなった寵姫たちのために建てられたのがハレムであるという。
写真中央の人形がスルタンの母后
スルタンのほとんどは奴隷女から生まれている。彼女達が奴隷になった理由はさまざまで、親に売られたもの、海賊にさらわれたもの、戦争で捕虜になったもの、奴隷狩りでつかまったものなどである。ハレムに入る奴隷はスルタンの子を生むために買われた女性たちなので、魅力的な容姿を持つだけではだめで、聡明でなければならなかった。(13,4歳でハレムに入り、ハレムの中でトルコ語、アラビア語などの言葉の他、詩歌、音曲、舞、手芸などをマスターしていったらしい。スルタンを虜にするには十分な知識と知力を基礎にした会話力が必要であったということか。)彼女らの多くは黒海沿岸に住むロシア系の女性だったので彼女達から生まれたスルタンは白い肌と青い目をもつようになったらしい。(ギリシア出身の神父の娘で有力な母后となった女性もいる。)
アジアの中央高原を駆け回っていた騎馬民族であったオスマン・トルコの先祖は武力で権力の座を勝ち取ったが、その座を世襲することを正当化する手段として宗教を利用したらしい(よくある話。)
その結果オスマンの血は神格化され、スルタンの血を受け継いだ男子であることがスルタンになるための絶対必要な条件になり、母の出自は問われなくなった。(オスマン・トルコが巨大化し結婚相手にふさわしい王族がいなくなったからだという説もあるがどうだろう。母が奴隷出身なら母系に権力を奪われる危険はなくなる。富を分散させないために近親結婚を繰り返し病気や狂気の子孫を多出した欧州王族の二の舞も避けられるわけだが。
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スルタンの部屋 天井も美しい。 アラベスク模様で統一されている室内
私はこれまで10数回欧州にでかけたがここまで美しく大規模な室内装飾が施された宮殿はみたことがない。最盛期のオスマントルコの富と力がどれほど大きかったか思い知らされる。
窓の下にはコーランが 王子達の部屋も美しい。ただし、この部屋に住めるのは幼い時期だけである。
母系の遺伝子がいかにバラエティに富んでいようと、常に有能なスルタンが生まれるというわけにはいかない。新しいスルタンは父の死に伴って誕生する。(即位の時点でスルタンには父がいない。)弟達は新スルタンに反抗できないように金の鳥かごと呼ばれた部屋に押し込められる。(ある時期までは鳥かごへの幽閉ではなく絹の紐でくびり殺されていた。)奴隷出身であってもスルタンの母の地位は強大になる。オスマン家第一に考えられたこの制度がイスラム宗教勢力の頑迷さとあいまってトルコの近代化を遅らせ、トルコを滅亡の危機においやった。
宝物館に並ぶ行列 凄い混雑なのであきらめて早めに出て休んでいる諸氏
この宝物館には巨大なダイヤとか金で覆われた玉座とか、これまた巨大なエメラルドを三つもはめ込んだ金の短剣、金で編んだスルタンの兜とか鎖帷子とか物凄い量の宝石が展示されているが、凄く混雑してゆっくり見る時間がない。撮影も禁止だし、ご覧になりたければ現地に足を運び開門と同時に入館されるとよろしいですよ。(私などは次回は個人旅行してゆっくり見たいのである。)アタチュルクに追い出されたスルタンはスーツケース一杯の宝石を持ち逃げしたらしいがそれらの行方はどうなったのだろうか?
宮殿のテラスで海峡をみていたら、日本大好きというトルコ人聴覚障害者に会った。日の丸の入った鉢巻をしているので話しかけたら、筆談で渋谷の日本語学校に通っているといっていた。エルツールル号事件と日露戦争以来トルコ人には親日家が多いそうだ。
続く