アンカラ午後の部
鉄道駅
→博物館へ→市場→喫茶店でチャイを飲む→空港へ→
アンカラ駅のホーム。 近い将来この駅にはボスポラス海峡下のトンネルを通ってイスタンブールからの列車が来る。その頃にもう一度トルコに行きたいなぁ。トルコは日本の建設会社にこの仕事を発注したという。それに引き換え日本人はトルコからあまり物をかわない。絨毯とか、トルコ石とかもっと買ってくださいよ、といわれたが悪いなとは思うけどトルコに行くだけで精一杯なものですから・・・
鉄道駅のホームにある食堂で昼食を食べた。飲み物、前菜、メインつきなのに美味しくて安価だった。待合室は人であふれていたが食堂はすいていた。列車をみながら食事するのも楽しい。
英語のメニューの中にルーマニアン・レバーという一品があった。牛のレバーか羊のそれかが分からないので英語で聞いてみたが通じない。仕方ないので額の横に左右の人差し指をたてて「ムームー?」と鳴いてみた。ウェイターのおじさんは大笑い。「エヴェット=はい?」手振り身振りでも旅行はできそう。トルコ国民の大部分はイスラム教徒だけれど、アタチュルクの慧眼によってトアラビア文字を捨て、擬似アルファベットを使っているので(これもアタチュルクの創造である)、アルファベットの知識があるものにとっては何となく気が楽な国である。
博物館へ
個人旅行すると大抵その地の博物館に行くので、今回も目指したのだが、なれない場所なので迷っている暇もなく、(信号待ちしているおじいさんに聞いたら、手振り身振りで教えようとしてくれたのだが確かめる暇もなく)結局元来た道をたどり空港へ向かう。(合流できなかったらバスか鉄道+船またはバスでイスタンブールへ行かないと行けなくなる。そうすると到着は下手すると翌朝になる。)
トルコには金細工商が多い。戦乱の歴史から、実物資産である宝飾品を所有する傾向が強いからだろう。自家の保身ばかりを考えて、アタチュルクに追い出されたオスマン・トルコの最後の皇帝もスーツケース一杯の宝石を携えてイギリス領へ亡命したという。(皇帝一家の中には落剥して欧州で石鹸売りをしていた人もいるらしい。)
計画的に作られた都市にしては雑然とした市場。すり鉢の底のような場所にある。。雨がふったらどうするんだろう。「マダム」「マダム」とよびかけられた。オスマントルコはドイツと親密な関係にあったが当時はフランス文化が一等抜き出た存在で上流階級ではフランス語が重用されたせいであろう。(アタチュルクはフランス語に秀でていた。彼はフランス語の軍事操典を翻訳したこともあり、彼の自由民権思想、共和国思想などもフランスの啓蒙主義から影響を受けたのではないだろうか?)
松の実を探している間に市場の末まで行ってしまった。トルコ人というよりイランのアフマドメジャディみたいなやせた八百屋さんが「写真を撮ってくれ」という。撮ってあげたら映像もみせてくれという。デジカメはまだトルコ人にとっては高嶺の花らしいが、撮影後すぐ映像が確認できることは知っていたのだろう。でもその場でプリントしてあげることは出来ないから撮ってあげてもあまり意味ないと思うのだけど。(こうしてインターネットに載っているのだから意味があったのかも。
チャイハネ(トルコ風喫茶店)で
(チャイ=トルコ風紅茶・・・小さなグラスに注がれた濃い目の紅茶)
空港行きのバスに乗る前にチャイハネへ入った。
私がトイレに行っている間、お店の人が連れあいに「中国人か」と聞いたそうだ。「日本人だ」というととても嬉しそうに話かけてきたそうだ。一方私はトイレで四苦八苦。うっかりバッグ・ハンガーを便器に落としてしまったのだ。トルコの下水道はとても狭いので人様の排出物を流すだけで精一杯だと聞いていたから何とか回収しないと迷惑をかける。(方法は忘れたが何とか回収した。)落し紙は流さず、備え付けの箱にいれる仕組みだからトルコのトイレは臭い。(ホテルのトイレは別。)上水より下水に文明度が現れるのかも。(ただし、これはトルコに限った事ではなく、イタリアのタオルミナの滞在先でも同じ経験をした。)ここのチャイハネはファースト・フードに似ていた。料金はきわめて安かった。
旅友と落ち合ってイスタンブールへ
宿から空港へ行く道は分かりにくいからタクシーに乗れといわれていたが、何とかバスで空港へたどり着いた。。ここでもひと騒動あったのだけどまぁ長くなるので省略。トルコではあまり英語が通じないな、という感想をもった。(国際線ロビーなら通じるかも知れない。我々の英語が酷すぎたのかも知れないし。)ビル・ゲイツ風トルコ人ガイドさんに感謝。
イスタンブールへの飛行機で出たおやつ?量も結構あった。ただチーズは少しから過ぎるように思う。
イスタンブール再訪