ここが変だよイタリア人

      「日本のレストランのテーブルにはなぜテーブルクロスが掛かっていないのだ?」

      初めて日本を訪れたイタリア人にそう言われた。

      イタリアではどんな田舎のレストランへ行ってもテーブルクロスが使われていて

      、都会の高級レストランではパリッと糊のきいた純白のテーブルクロスを客が来る

      と取り替える。そしてかならずナプキンが用意されている、テーブルクロスと共に

イタリアのレストランでは欠かせない演出だ。日本のイタリアレストランへ行って

料理はおいしいのに何か本場と違和感があると感じるのはこのテーブルクロスを

使っていないためかもしれない。逆にテーブルクロスさえ広げればイタリア

レストランに変身してしまう。

日曜日には商店はスーパーマーケットも含めすべて閉まる。消費者の立場からは

不便この上ないが、商店で働く人もみんなが休む日曜日には休みたいのが人情だ。

 イタリアのカレンダーは月曜日に始まり日曜日に終わる。アダムとイブが禁断

のリンゴを食べたので神が「労働」を罰として与えた。7日間ぶっ通しで働いたら

大変だろうと最後の日を休息日として日曜日が決められた、慈悲深い神様の思し召し

に感謝しなければならない。人間の本質は労働から開放されて、自由に生きること

だとイタリア人が思っている根本はこんなところにあるのかもしれない。

 日本は儒教の精神が根付いているから、労働は徳と教えられているが、これは

体制教学からきている。日本人全員ががんばって働いたから、今日の日本の繁栄が

あるのも事実だが、その歪も出始めている。そろそろこの辺で日本もイタリア的思考

を取り入れる必要があるのではないでしょうか?

 イタリアのアパートの玄関ドアは全て内側に開くように作られている。日本の

マンションは外側に開く。日本のマンションの場合、スペースが狭い故の設計かな

と思ったがそうではないらしい。ヨーロッパのお城の門も内側に開く、これは外敵

が攻めて来たときに内側に太いかんぬきを掛け開かぬようにするためである。

これが外側に開くようでは容易に開けられてしまう。外敵から身を守るための城

の発想が個人の家にも適用されているのだと思う。欧米の映画で敵が侵入しない

ように玄関ドアの前に家具を積み上げブロックする場面は、日本の家屋では真似

できない。

 イタリアの都市駅は全てターミナル駅になっている。必ずしも街の中心を鉄道

が縦断する都市設計にはなっていない。中心には鉄道が発明されるもっと昔から

ドオモの教会があったからだ。駅にはプラットホームがあるが、低く列車によじ登る

ように乗り込まなければならない。日本のようにホームの高さが列車の台車と同じ

高さにそろえてあるほうが便利だと思う。しかし、私はこのよじ登るという行為が、

これから列車に乗り込んで旅をするのだという意気込みを与えてくれる大事な要素

だと思っている。またプラットホームが低いので、落ちてもJR新大久保駅事故の

ようなことは起こらない。駅構内はざわついているが、列車の発車のベルもなければ、

がなりたてる放送もない。発車時刻は掲示板に表示されているのだから、わざわざ

ベルで知らせる必要はないだろう。時間がくれば静かに発車する。日本の駅では、

乗客の耳鼓膜を破ろうと試みているのか、暴力的な大音量の放送を流すので、乗車前

から旅の疲れがどっと出てしまう。かくして日本の都会生活では低周波から高周波

までさまざまな騒音が撒き散らされ、人間の脳深層までダメージを与え、人間を狂気

に駆り立てることになった。イタリアと日本の社会システムの違いは大人と

子供の世界の違いではないかと思う。JR新大久保駅事故でも、JRに対して、

ホームに転落防止の柵をつけろと、ホーム売店で酒を売るな、ホームに落ちない

よう駅員をはりつけろとかクレイムを世論はするが、これは子供の論理だ。

事故の責任は誰にあるのか?それは泥酔してホームを歩く人間が悪い!そのため

尊い二人の人間が犠牲になった。ホームの売店で酒を売らなくても、駅前のコンビニ

で売っているし、一杯飲み屋も駅周辺にたくさんある。それらも禁止にしますか?

ホームに柵をつけても、酔っ払いはそれを乗り越えてホームを落っこちるかも

しれない。そんな者のめんどうを見るために多数の駅員を夜遅くまで動員して、

人件コストが上がり、運賃値上げになっても文句を言いませんか?

 イタリアでは駅だけではなく街中で泥酔している人は見たことありません。飲酒の

分量は個人がそれぞれわきまえている大人社会だからです。戻る