「明かり」と「灯り」

ミラノの夜は夜らしく暗い。イタリアの家庭では照明器具として蛍光灯はほとんど

使われていない。昔ながらの白熱灯の間接照明が多い、天井灯はなく真っ白な漆喰

で覆われた天井にフロアスタンドを向け照射する間接照明だ。読書をするときは、

手元を照らす小さなスタンドを別途使うので問題はない。通りすがりに見る

イタリア人の家屋からはほのかな黄色っぽい明かりがもれているだけで、街路にも

ほとんど照明はないから街全体が非常に暗い。時々通りすがら見るアパートに煌煌と

明るく照明している部屋を見つけることがあるが、おそらくは日本人駐在員か

フイリッピン人の家だろう。東洋人は蛍光灯が好きで煌煌とした照明を好む。

ところがヨーロッパは暗い白熱灯の照明が一般的だ、ミラノで始めてアパートを

借りた時、日本人としては最初この暗さが何とも陰気で、腑に落ちない。

事務所でも夕方になり文字がぎりぎり見えなくなる寸前までイタリア人の同僚は

照明をつけない。彼らに言わせれば自然光が一番目によい、明るすぎる人工照明

は健康に悪いと。日本人から見れば暗いほど目に悪いと思うのだが。

夜の帳が下りる頃、下町のレストランに行けば、これまた暗い、大体が

ロウソクをテーブルに置いただけで料理の色柄もわからない場合がある。

しかし、不思議なものでイタリアの生活に慣れるに従い、この暗さが何とも

言えない心地よさになってくる。ナビリオ(運河)沿いのバールとかレストラン

は、もうこれ以上照明を落としたら相手の顔も見えないくらいの光度です。

そんなレストランから料理を堪能して外に出ると満天の星と大きな月の明るさ

に驚きます。日本の都会では星降る夜が見えるのだろうか?日本のギラギラ

した真昼のような体に突き刺さるような照明は異様に思える。

昼と夜のメリハリが付き、暗い夜は人々に安らぎを与える。

一夕に開かれた大きなパーティ会場では日本人連中は明るい照明の場所に

集まり歓談しているのに、イタリア人は光明の当たらないちょっと薄暗いところに

たむろする習性を発見しました。農耕民族と狩猟民族の違いだろうか?

太古には狩人は他人の攻撃から身を守るため暗い場所に潜んでいたに違いない。

それともイタリア女性は陰影のある彫りの深い横顔をさらすほうがステキに

見えることを本能的に察知しているのだろう。日本人ののっぺりした顔が

明るい照明下、ますます平面に見える。

ブレラ通りには夜になると魔法使いのおばあさんのような占い師がたくさん

路上にを出すが、そのロウソクの灯りはさながら万灯会の趣でタロット、

星座占いもよく当たる雰囲気をかもし出している。これが懐中電灯とか他の光源

では神秘的な儀式作法もできないだろう。

イタリア語にも「ひかり」は二種類の言葉がある、太陽、電気のひかりにはluce

使い、月光、ロウソク、ランプなどのほのかなひかりに使うlumeがある。

ミラノの夜にはlumeを使うのが相応しいと思う。

冬になるとミラノ名物の霧ですっぽり覆われ、暗い照明が霧の中に浮かび上がって

くる様は幻想のようでロマンチックです。クリスマスの頃になると大きな通りに

ルミナリエの電灯装飾が付けられる。これも小さな白熱灯でカラー電球は使われ

ていない。この色のつかない電球は派手ではないが、質素なクリスマスの雰囲気

をよく出している。ドウモの聖堂の尖塔に掲げられたマリアの彫像も、周囲が

暗いからこそライティングが効果的なのだ。日本で「明かり」と呼ぶものは

イタリアでは「灯り」と言うのがふさわしい。「灯り」は常に闇とか暗さの対比の

中でほのぼのとした温かさを感じる言葉です。そして夜の暗いのは当たり前で、

夜は暗くなければならない。イタリアで朝の太陽が何倍にも明るく感じるのは

正しい夜の姿があるからと思われるからです。戻る