カターニャ その2.
 
私の前に座ったのはGERRIT というオランダ人で、
ここへは出張で来ているという。
さすがオランダ人というべきか、花の栽培の指導を
カターニャでしてるらしい。
 
イタリア人はカップルやファミリーで行動している人達なので、
一人でレストランで食事するのは少しつらいものがある。
だから、一人で来ている人同士は、自然と話をする・・・
というシチュエーションになる事が多い。
 
シラクーサで知り合った人達や、DEBORAは私がこの後一人旅を
すると言うと、必ず悲しそうな顔をして、
"寂しいねえ" と言ってくる。
一人旅が自由でどれだけいいか、と説明しても解ってもらえない。
だから、レストランで、一人客同士が話しをしたり、
それが男女で、同じテーブルに移動したりすると、周りの人達は、
私に笑顔を送り、よかったねぇ!みたいな顔をしてくるので、
なんともバツが悪い。
 
GERRITは少しイタリア語を話すので、お互いにゆっくりとした
イタリア語で、意思の疎通は充分に出来た。
ワインを飲んで、食事を一緒にして、別れた。
 
次の朝はカターニャ市内の大きな二つの市場へ行った。
日本へ帰ってから、シチリア料理の研究の為に、いろんな食材を
購入するのが、ここカターニャでの目的の一つだった。
 
シチリアや南イタリアの人達はお店の人との会話を楽しむのも、
買い物のうち・・・なので、スーパーマーケットよりも、市場、
商店と、対面式の買い物が好まれている。
毎朝開かれる青空市場は活気に満ち溢れている。
 
カジキマグロを解体している魚屋さんはカメラを向けるとポーズをとってくれた。

       
 
イタリアの市場で私のお気に入りは豆屋さん。
びっくりするほどの種類の豆があり、又、数種類の
ミックスも売っている。

         
 
この写真は八百屋さんで売っていた生のアーモンド。

       

どう料理するのか質問し、色々と説明してくれたが
結局理解できなかった。
 
そして、魚市場の横にあったトラットリアで、しらすのパスタを食べた。
その後、シラクーサにまだいるJun Yean や、私がまた戻ると思っている人達に
電話をして、もう日本へ帰ると、連絡をした。
 
その頃の私には、シチリアの中ででも、パレルモ弁とカターニャ弁の違いが
分かりかけていた。
パレルモの人はカターニャ弁の悪口を言うし、カターニャの人達は、
パレルモ弁って田舎っぽい、と言っていた。
学校のあったシラクーサやDEBORAの家のアチ・カステッロもやっぱり
カターニャ弁で、パレルモ弁に比べると、抑揚があり、まるで歌ってるように
聞こえる時もある。
 
その夜ドーモ広場を歩いていると、バールのオープンテラスでビールを
飲んでるGERRITと偶然に会い、又一緒に食事をして、
アムステルダムに来たら案内してあげるから、ぜひおいで、と言われたので、
私も京都へ来たら案内するよ!とお互いの住所を交換した。
それが、シチリアでの最後の夜となった。
 
イタリア語を習い始めてからの夢だった、1ヶ月の語学留学。
シチリアに関する本や、シチリア関係のHPを熟読し、
イタリア映画も可能な限り、ほとんど観たし、
約半年前から、アパート探しをし、準備も完璧だった。
留学後の旅行も、きっと何かトラブルが起こるだろうと、保険にも
初めて入ったが、何もトラブルはなかった。
こんな完璧な旅が出来るとは、思ってもいなかった。
 
思い起こせば、32歳で一人娘を抱えて離婚し、
そこから会社を興し、がむしゃらに働いた事。
仕事浸けの毎日で娘に寂しい思いをさせた事。
あれから30年近く・・・
あの頃の私に、将来こんな日が来るなんて、
一人、機内で、涙をぬぐっていました。
 
ありがとう・・・ありがとう・・・
全てのことにありがとう・・・・
 
   

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